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10月14日 琴星一門会@日本橋亭、本牧亭講談会@御茶ノ水

★★★朝の!宝井琴星一門会(お江戸日本橋亭 9時30分開演)

●宝井琴柑 アルミニウム産業の夜明け
 ▽2週間後くらいに、アルミニウムを扱う企業の協会での催しで披露するために作った新作。タイミング悪く、神戸製鋼所の偽装問題でこの業界は大揺れ。この琴柑さんの新作講談の行方は如何に?
 ◇慶応3年生まれの高木鶴松。13歳の時大坂天満の自宅を飛び出し、北海道から九州まで日本全国方々を渡り様々な職に就くがいづれも長続きせず、やがて大阪に戻ってくる。測量の仕事を始め、11歳年下の古登(こと)と結婚。明治29年、古登は片手間で金物商を始め、これが間もなく軌道に乗る。小僧を何人も雇い、鶴松も測量の仕事をやめ、金物商に専念する。明治33年、軍が独占していたアルミニウム製品が、民間にも出回ることになり、鶴松の商店でも取り扱う。明治35年、鶴松はアルミニウム製品の販売だけでなく、製造にも乗り出す。鍋、お玉、小匙、弁当箱。しかし当時はホーローが中心の時代でなかなか売れない。ある日、鶴松は「アルミニウム」という名前が悪いことに気づく。文楽の「お軽・勘平」、講談・太閤記の「足軽」から、銀のように美しくて軽い、「軽銀(けいぎん)」という名を思いつく。新聞広告に載せ、明治36年の万博では「鶴丸印」のブランド名で大々的に宣伝し、こうして大阪にアルミニウムの製品は広まっていく。
 一方、東京では那須鉄之助という富山出身の男は、浅草・鳥越で金属の飾り職人をしていたが、やがてアルミニウムに目を付ける。鍋、やかん、花瓶を製造し、海外へ輸出するようにまでなったが、関東大震災で鉄之助、妻、そして従業員30余人が亡くなり、子息が跡を継いだ。やがてアルマイト弁当箱が学習院で採用され、日本国中に広まるようになる。
●宝井琴屯 御子神典膳 瓶割り
 ▽「近くにあっても豆腐、遠くにあっても蕎麦」というフレーズは覚えておこう。
●宝井琴星 大久保彦左衛門 五色の蔦
 ◇後水尾天皇は、幕府の朝廷に対する方針に反発し、退位後は院政を敷いている。ある時、明の国からの珍しい布切れを入手しこれを袱紗(ふくさ)に作り替える。これに各国の名だたる画工に「近江八景」の絵を描かせるが、どうしても「比良の暮雪」の絵を描く人物だけが見つからない。錦山(きんざん)という者が雪の絵を描く名人だと聞き、探すと、この者の正体は兼松又四郎という旗本だという。朝廷から幕府に命が下り、松平伊豆守が兼松に千両で「比良の暮雪」の絵を描くよう依頼するが、それは将軍家を守る旗本の本分では無いと、兼松は断った。
 ここで、伊豆守は大久保彦左衛門に相談する。彦左衛門はその袱紗と500両を用意させる。彦左衛門は兼松に、自分には財産がないからお宝にしたいと、袱紗に「比良の暮雪」を描いてくれるよう懇願する。兼松も普段から世話になっている彦左衛門の言うことだからと引き受けた。その代わりに彦左衛門は日本に1つしかない、五色の蔦(つた)を兼松に与えると言う。絵は完成し、袱紗は彦左衛門から伊豆守、将軍、朝廷、そして帝へと渡り、大層な出来栄えに満足された。兼松は彦左衛門に対し、五色の蔦を要求するが、元からそんな物は無い。彦左衛門はヒイラギの木を引き抜き、葉っぱを絵の具で5色に塗らせ、これを兼松の屋敷に持って行かせる。葉っぱの絵の具は簡単に色が落ち、偽物だとすぐにバレる。激怒する兼松。彦左衛門の屋敷に乗り込み、槍で突こうとするがこれを彦左衛門はかわす。床の間には徳川家康公の御像がある。驚いてひれ伏す兼松。将軍家の命により、尊き方お求めの絵が描けるとは末代に渡るまでの栄誉であると諭す彦左衛門。五色の紙に包まれた500両の金が床の間に置いてある。家康公から頂いた金子とありがたくこれを拝領し、兼松は自分の屋敷へ引き下がる。この話は家光公の耳に入り、兼松は50石のご加増となった。
 (10時58分終了)

171014琴星一門会

★★★本牧亭講談会(御茶ノ水・太陽 13時03分開演)

 前座の貞奈さんはこの会は初出演。本日の出演者は前座さんを含めて4人でいつもより少ない。ということで、皆さん、いつもより長めにたっぷりと話を語ってくれました。

●一龍斎貞奈 三方ヶ原軍記~臆病一番槍
●宝井梅湯 関東七人男 浅吉のバクチ狂い
 ◇武州赤尾村の名主の倅、浅吉は遊び呆けてばかりで親からも勘当され今はバクチ打ちの身。お勝という女房と浅太郎という小さな子供がいるが松皮疱瘡に冒されている。12月も末になって正月を迎える金が無い。お勝がこっそり所持していた金が2分あり、これを子供の薬代と正月の餅代にしようと浅吉を高坂の町へ買い物に行かせる。27日、今日こそはバクチをやらないつもりで出かけた浅吉だが、ついつい貸元・藤右衛門の賭場でなけなしの2分を張って取られてしまう。藤右衛門の手下の亀五郎という男から明日朝返す約束で1両の金を借りるが、これもあっさりと摺ってしまった。
 がっかりして家へ戻ると、家の中へ人が集まり何やら話す声がする。息子の浅太郎が死んだのだ。これでは妻にも村の衆にも会わす顔も無いと、浅吉は井戸へ身を投げて死のうとするが、藤之助という男に助けられる。村の人の力を借りて葬式は済ませ、大晦日になった。亀五郎が1両の金を催促をしに来る。返さなければ指を詰めると脅す。藤太郎が仲裁に入るが、これも受け入れない。そこへ隠れていた村の者たちが出てきて、亀五郎を袋叩きにし、肥を浴びせて、村はずれへと放り出す。
 藤右衛門ほかが車座になっているところへ、悪臭放つ亀五郎が入ってくる。事情を説明する亀五郎。藤右衛門を含む3人が赤尾村へと乗り込む。浅吉の家では村の連中は既に帰ってしまっている。1両返せないなら、夫婦そろって裸になれと言い、さらに死んだ子供の着物まで取り上げ、そして浅吉の左腕をへし折る。
 正月2日、磯五郎の子分、林蔵は浅吉の復讐をすべく、高坂藤右衛門の家へ乗り込む。

●鈴々舎八ゑ馬 替り目
 ▽東京では志ん生の十八番として今でも記憶に刻まれている演目だが、上方版の「替り目」もまた楽しい。「元帳を見られた」という落ちは今の人には(私にも)分かりにくいかも。
 <仲入り>
●神田すず 神霊矢口渡 新田の落城
 ◇南北朝の時代のこと。後村上天皇を皇統とする南朝方では新田義貞の跡を義興(よしおき)が継ぐ。26歳の勇猛な武将義興は、鎌倉を支配する北朝方の足利尊氏を討つよう、後村上天皇からの詔(みことのり)を受ける。武蔵小手指が原の合戦では新田方が勝利を収め、本拠地である新田庄の城内で祝宴を挙げる。義興の御台所(妻)は筑波御前。筑波御前には湊(みなと)という女中が仕えている。また湊の夫は由良兵庫助(ゆらひょうごのすけ)という義興の家臣であり、現在は小手指が原の合戦に出陣している。南瀬六郎(みなみせのろくろう)という者が新田の城の留守居役をしている。そこへ兵庫助が小手指が原から戻って来た。大将である義興から勘当をされたという。家臣の竹沢監物(たけざわけんもつ)は勝ち戦に乗じて、このまま足利方が支配する鎌倉へ攻め込もうと進言し、義興もこれを受け入れる。一方、由良兵庫助は今は陣を整える時で相手を深追いしない方が良いと意見をするが、これが元で義興の不興を買ってしまった。
 そこへ一人の武者、篠塚八郎が城に入ってくる。彼は鎌倉へと進軍した家来の一人である。矢が何本も鎧に刺さり、足からは血を流している。聞くと、義興ら一行は多摩川の矢口の渡しを舟で渡ろうとするが、船頭が川中で舟の栓を抜き沈めてしまった。そこで足利の軍勢が両岸から攻め寄せ、もはやこれまでと義興は自害してしまったという。鎌倉攻めを進言した竹沢監物は実は足利方とひそかに内通しており、これらすべては足利尊氏の計略であった。ここまで言い終わって篠塚は自らの喉に短刀を突き刺して自害した。義興と共に戦った家来11人の妻たちもこれを聞いて次々と自害した。筑波御前も自害しようとするが湊はこれを押しとどめる。義興には3歳になる徳寿丸という世継ぎがいた。
 新田の城は早くも竹沢監物の軍勢に取り囲まれる。由良兵庫助は私は義興に勘当された身だからと降伏することを勧める。筑波御前、徳寿丸、湊、南瀬六郎は城を出ることにする。幼い徳寿丸は笈に入れそれを六郎が背負う。それぞれ貧しい身なりに扮し城の脱出に成功するが、やがて筑波御前と湊、六郎と徳寿丸は離れ離れになる。その後、この4人はまた再開することになる。この話はまたいつか。
 (15時22分終了)


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