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8月17日 講談協会定席 日本橋亭講談夜席

★★★講談協会定席 日本橋亭講談夜席(お江戸日本橋亭 17時30分?開演)

●神田伊織 岩見重太郎 ヒヒ退治
●宝井琴屯 三方ヶ原軍記
●田辺いちか 御子神典膳
●神田こなぎ 手裏剣お花
●田辺鶴遊 吉備大臣入唐記(きびだいじんにゅうとうき)
 奈良時代の初めの頃の話。日本の国のためにどうしても入手したい唐(もろこし)の2冊の書物があった。それは暦について書かれた書物であり、唐の進んだ文化を取り入れるためにはどうしても必要なものであった。
 第一の遣唐使として阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が選ばれた。唐津から出航し、現在の天津の港に着岸し長安の都へ。玄宗皇帝に拝謁し、例の2冊の書物をもらい受けたいと頼む。皇帝は2人の重臣、安禄山(あんろくざん)と楊国忠(ようこくちゅう)に相談する。安禄山は日本という国の文明が開けることにより唐の国の脅威になるのではと考える。とりあえず、日本人がどの程度の学問があるか調べることにする。仲麻呂に対して次々と難問を出すが、彼はこれをスラスラと答えてしまう。すっかり仲麻呂を気に入ってしまった玄宗皇帝。仲麻呂は日本に帰らなければならない身だが、玄宗皇帝はこれを押しとどめ、唐の国の官位を与えて自分のそばにいるように申し付ける。
 安禄山、楊国忠はこれが面白くない。奸策を弄して、凌雲閣の高殿へ仲麻呂を幽閉し、食事も水も与えない。衰弱した仲麻呂。間もなく命が絶えるであろう。日本にいる妻と子のことを想う。異郷の土になることを悲しみ嘆く。最後に三十一文字(みそひともじ)残したい。小指を噛み切り、その血で「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」と書き残した。こうして仲麻呂は35歳の時、餓死した。
 それから3年経って日本の国。阿倍仲麻呂は唐から帰って来ないし音沙汰もない。第二の遣唐使として吉備真備(きびのまきび)を送ることになる。難波の浦から唐津へまず移動する。なるべく波の穏やかな日に出航するため宿で待つ。8月15日、明日出航することが決まる。真備は夜空に輝く満月を見ながら仲麻呂はどうしているのだろうとしみじみ思う。
 翌日、唐津を出航し、12月の下旬になってやっと天津の港にたどり着いた。長安に向かい、玄宗皇帝に拝謁する。真備は安禄山と楊国忠に仲麻呂の消息を尋ねるが知らないと言う。暦に関する2冊の書物を頂きたいと頼むが、2人は今まだ評議中でしばらく待てと言う。仲麻呂が訪ねてもう3年も経つのにまだ評議中だとはと怒る真備。
 安禄山と楊国忠は、厄介な男が来たものだと追い払う方法を考える。日本には囲碁というものが無いだろう。我が国の囲碁の名人、ゲントウと勝負してもし勝ったら書物を渡すと言おう。もちろん真備が勝てるはずはないであろう。真備はこれを受けるが、囲碁というものが分からず困惑する。そこへ仲麻呂の霊が真備の前の出現する。彼は真備に囲碁について指南をした。真備はゲントウと対戦し、見事勝利をした。暦の書物を日本に持ち帰り、こうして作られた太陰暦は、明治五年まで長く使われることになる。
●一龍斎貞山 大岡政談 しばられ地蔵
 享保年間の話。日本橋本町一丁目の木綿問屋、山形屋はたいそう繁盛し、百人という奉公人を抱えている。主の名は源左衛門。「おはま」という18歳になる美しい娘がいる。「日本橋小町」とも呼ばれ気立ての良いおはまには婿になりたいという者が山のようにいるが、おはまには思いつめている男がいる。子供のころから店で奉公している20歳になる喜之助という真面目な男であった。喜之助もまたおはまのことを想っているのだが、店の主人の娘と奉公人では、身分の違い故一緒になることは出来ない。
 今ひとり、おはまにぞっこんの男がいる。一番番頭で又兵衛という61歳の男で色の黒いブ男。喜之助さえいなかったらと、山形屋から追い出そうと考えている。
 ある日のこと、本所柳島の旗本・伊丹様から「さらし」55反の注文を受ける。喜之助はこれを届けに、風呂敷に包んで日本橋の店を出、業平橋で一休みしようとする。因果地蔵尊の石仏の傍らに風呂敷包みを置き、休んでいる間に居眠りしてしまった。気が付くともう辺りは薄暗くなっている。ひょいと見ると風呂敷包が無くなっている。誰かに盗まれたか。戻った喜之助だが盗まれたとは言いにくく店前をウロウロしていると、又兵衛に呼び止められた。さらしを盗まれた旨を話すが、これを聞いて又兵衛は「しめた」と思う。盗まれたという喜之助の話を聞き入れず、お前がどこかの女に入れ込んで金に困り、さらしを売って金に換えたのだろうと責め立てる。これを傍らから聞いていたおはまが間に入り喜之助をかばうが、又兵衛にはこれがまた面白くない。喜之助は暇を出されて店を出る。
 自分が盗んだことにされてしまったが、本当の泥棒を見つけて貰いたい。喜之助は奉行所に訴え出る。これをお取り上げになったのが南町奉行・大岡越前。人相を見るのが得意な越前。喜之助の顔を見るが嘘偽りを言うような人間ではない。
 越前は「因果地蔵を召し捕れ」という。下役たちは本所業平橋まで赴いて因果地蔵を荒縄でがんじがらめに縛り、江戸の町内を引き回す。それを見て物見高い江戸っ子たちは面白半分で付いて行く。南町奉行の前には野次馬がたくさん集まる。越前は彼らにお白洲の中に入ることを許すと、何百人という人だかりでいっぱいになる。
 お白洲に置かれた因果地蔵へのお裁きが始まった。何を言われても喋りもしないし、身動きひとつしない地蔵を前に、越前が本気になってあれこれ語りかけるので、これを見ていた者たちはおかしくて笑う。越前はお上を嘲弄するとはけしからんと、見物していた者たち一人一人に科料を申し付けた。白布に住所と名前を書いて奉行所に差し出せと言う。こうして何百というさらしが集まった。これは越前の策略であった。喜之助からさらしを盗んだ者は、それをどこかに売るだろう。こうして方々から取り寄せたさらしを調べて、もし山形屋の物があれば入手経路をたどって犯人が見つかるだろう。
 集まったさらしを一反一反調べて行くと、「入り山形に源」の紋がある山形屋の商品が見つかった。これには八丁堀の大工、熊五郎の名前が書いてある。熊五郎を呼んで問いただすとこれは伝馬町の榊屋で買ったものだという。榊屋の主人に尋ねると先日、本所小梅の御家人、一刀又郎が55反のさらしを売りに来たのでこれを買ったという。一刀又郎を取り調べると、業平橋でさらし55反の入った風呂敷包みを盗んだことを白状した。喜之助の無実も証明された。喜之助は山形屋の店に戻ることができた。
 越前の仲立ちで、喜之助は山形屋の婿になり「おはま」と夫婦になる。2人は仲睦まじく暮らす。「お調べ」になった、いや「お縛り」になったお地蔵さまは今では葛飾区金町の南蔵院に安置され、参拝する人が絶えないという。
 <中入り>
●田辺一邑 古橋廣之進
 再来年のNHK大河ドラマは前半と後半でそれぞれ別の主人公がおり、後半の主人公は田畑政治(たばたまさじ)という1964(昭和39)年の東京オリンピックの招致に尽力した人物である。この方は終戦直後、日本水泳連盟の会長を務め、水泳日本の黄金時代を築く。以下はこの田畑政治にも関係する話。
 昭和15年、静岡市のプールで小学生の水泳大会が開かれ、古橋廣之進という少年が学童日本一の記録を出す。新聞はこぞって「豆魚雷の誕生」と書き立てた。廣之進は静岡県雄踏町(ゆうとうちょう)宇布見(うぶみ)、現在の浜松市西区の生まれ。父親は宇八という名で日本通運に勤める巨漢であり、相撲が強かった。幼い頃も相撲取りになりたかったという。
 さて、水泳の新記録を打ち立てた廣之進には様々な中学校から誘いがかるが、浜松第二中学校に入学する。現在の浜松西高校であり、余談ではあるが瀧川鯉昇師匠がこの学校の出身である。しかし時局の悪化で勤労動員に駆り出され、鈴木織機という会社で高射砲の弾丸のネジを磨く仕事をしていた。その時の事、左の手の先が機械に触れ、指が挟まれる。すぐさま病院に運ばれたが、左手中指の先端部分を切断した。これでは水がかけない、もう水泳が出来ないと嘆き泣く廣之進。しかし水泳はあきらめなかった。
 昭和20年、終戦を迎え、母親の勧めがあって廣之進は日本大学に進学し、水泳部に入部する。昭和21年、鶴見の下宿にいた際に母親が危篤であるという連絡を受ける。すぐさま浜松の母親の元へ駆け付ける。急性肺炎でげっそり痩せている。「水泳頑張ってね。必ず世界一になってね」という言葉を残して母親は息を引きとった。廣之進は日に2~3万メートルも泳ぎ、練習に励む。
 さて、日本水泳連盟は復活し、田畑政治が理事長に就任する。しかし神宮プールは占領軍に接収され、日本人は使えない状態が続く。日本人にも使わせて貰いたいと、水泳連盟は何度も嘆願書を出すが受け入れて貰えない。理由は、日本人は汚いふんどし姿で泳ぐのでレディが嫌がるからだと言う。それならばと、日本の関係者は急ごしらえで水泳用のパンツを作製する。物が不足する時代、素材も見た目もお粗末なものだった。パンツ着用を条件に神宮プールの使用が許可された。
 こうして、廣之進は400m自由形で世界記録を上回るレコードを出す。しかし国際水泳連盟に復帰していないという理由で公式なものとは認められない。また、ジャップがインチキをしたのだろう、時計が狂っていたのだろう、プールの長さが短いのだろうと、世界では悪評が立つ。
 昭和23年、1948年のロンドンオリンピックで敗戦国である日本とドイツは参加が許されなかった。なんとかして参加させてくださいとマッカーサーにも掛け合ったが、イギリス側から、戦争中に日本軍に沈められた軍艦「プリンスオブウェールズを忘れない」と言われて拒絶されたという。オリンピックに参加できない無念を晴らしたい。日本人の心意気を世界に見せようと、国内で水泳大会を同日に開くことが決まる。
 昭和23年8月9日。400m自由形。同日ロンドンのオリンピックでも同じ競技が行われている。観客席には超満員の大観衆が詰めかけている。そして廣之進は一着でゴールする。記録は。日本中の人々が固唾を呑む。タイムは4分33秒4。世界新記録である。観客席から大歓声があがる。
 翌年、日本は国際水泳連盟への復帰が叶う。廣之進は400m、800m、1600mで世界新記録を打ち立て「フジヤマのトビウオ」と呼ばれるようになる。
●宝井琴梅 天保水滸伝 笹川の花会
 朝、笹川繁蔵から飯岡助五郎の元に、花会を笹川の十一屋で開くとの知らせが届く。花会とは親分衆ばかりが集まって開く賭場のことである。助五郎は風邪をひいて寝込んでいるので、洲崎(すのさき)の政吉に花会に行くよう言いつける。政吉は助五郎の跡目を継ぐ者であり一番信頼のできる子分である。政吉は笹川繁蔵に渡す「義理」(金)として、親分・助五郎から5両、その子分一同から3両を預かった。2人の子分を連れて5里離れた笹川まで赴き、花会が開かれる宿屋・十一屋へ着く。
 宿屋に入り、「義理」を繁蔵の子分に渡そうとするが、傍らにいた繁蔵はそれを自分の懐にしまい込んでしまう。横から金を頂戴してしまいようなしみったれた野郎だと政吉は鼻で笑う。花会の開かれる二階の広間に入ると政吉は驚いた。見渡すと、どこの誰だかは知らないが一目見ただけでこれは大物だと分かる貫禄のある親分衆がズラリと居並んでおり、すっかり威圧されてしまった。政吉はそれほどの貫禄は無いし、見知った親分も見つからない。どこへ座ればいいものかと思っていると、「こっちへ来い」と声がかかった。常陸国の親分、皆治であった。皆治は助五郎の親分である銚子の五郎蔵と兄弟分の仲である。皆治は参席している親分たちに政吉のことを紹介する。ひとり、皆治の向かい側に胸毛の見える眉毛の太い、いかつい顔をした男が腕を組んで政吉をじっと睨んでいる。この男は政吉の親分の助五郎のことを「スケ」と呼ぶ。頭にきた政吉。その男は広間に居並ぶ、遠方からも駆け付けた大親分の歴々の名を言い立てる。さらに飯岡と笹川がすぐ近くなのにも関わらず、這ってでもなぜ来なかったと助五郎をなじる。この男こそ上州の大親分、国定忠治であった。
 鴨居にはどこどこの親分からいくらいくらの「義理」を貰ったとのビラが貼って並べてある。そこには親分だったら50両から60両、身内一同だったら25両というような額が並ぶ。ところが助五郎が渡した「義理」は5両でその身内一同からは3両。これでは助五郎は大恥をかく。ところが繁蔵の子分が張った、助五郎の義理のビラには「助五郎50両、身内一同30両」と書いてある。政吉は自分が渡した義理を、繁蔵が懐へしまい込んだ理由が分かった。助五郎が万座の中で恥をかかないようにと繁蔵は金を差し換えてくれたのだ。政吉は繁蔵をありがたく思う。このビラを見て国定忠治も機嫌を直したようで、にっこり笑って盃を渡す。
 政吉は繁蔵に深々と頭を下げて礼を言い、他に回るところがあるからと先に花会の場を去る。飯岡に戻った政吉は、助五郎に花会の模様を話す。大変に盛んで、遠くからも各地の大親分が集まっていた。助五郎親分も明日、顔を出したらいかがでしょうかと言う。繁蔵を妬ましく思う助五郎。政吉はひとり酒を手酌で飲みながらしみじみ思う。繁蔵になにか恩返しをしなければと思う。
 (20時44分終了)

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