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8月15日 すず&銀冶@王子・北とぴあ

王子・平和祈念の像 今日は終戦記念日。日本人として特別な一日である。会場のある王子「北とぴあ」の入口前には、長崎の平和祈念像と同じ型をした像(大きさは実物よりずっと小さい)が設置されている。この像の制作者の北村西望氏が北区の名誉区民であったことが縁で1990年に建立されたものだそうだ。

★★★三日連続読みの会(王子・北とぴあ14階カナリアホール 10時02分開演)

●田辺銀冶 誰か故郷を想わざる
 昭和53年のこと、この年の夏の暑さは殊更に厳しく東京では最高気温36度を記録した。この夏の7月25日に亡くなったのが昭和歌謡界の大御所、古賀政男である。奇しくもこの日は「かよう日」であったとか。古賀政男は生涯のうちに5000曲を作曲したという。
 政男が生まれたのは明治37年、日露戦争が始まった年だった。福岡県、現在の大川市に生まれ、7人兄弟の6番目の子供。父親は喜太郎という名で、天秤棒を担ぎながら歩く、貧しい瀬戸物の行商人だった。仕事の厳しさゆえか父親はまもなく亡くなる。母親ひとりではこれだけの子供を養えない。5歳の時、政男は姉や弟と共に玄界灘を越えて、韓国の仁川(いんちょん)に渡り、一番上の兄が経営していた徳本商店に厄介になり暮らす。福岡へ帰りたいと毎日泣いている政男。
 ある時、年頃になった姉の藤子は宮崎県都城へ嫁にいくことになった。今度いつお姉さんに会えるのか。宮崎は遠いのでもうここには帰ってこないだろう。政男は家の裏の小川で泣く。
 成長し、作曲家として成功した政男は、ある時、仕事上のパートナーである作詞家の西條八十にこの時の姉との悲しい別れを話した。一週間後、八十は政男から聞いた話を元に詞を書き政男に手渡す。政男はこれに曲を付けた。この曲こそ『誰か故郷を想わざる』である。
 福島県いわき出身の霧島昇は歌手になりたくて東京へ出る。レコード会社を回るがそう簡単に歌手になれるはずもなくどこも断られる。なにげなく行った浅草のレストラン劇場にはステージがあり、歌手が歌を歌っている。ここに狙いを定めた霧島昇は日給10銭で採用され、掃除や皿洗いの仕事をしながら、ステージにも立って歌を歌う。まもなく昇の歌の上手さが評判になり、コロムビアレコードのお偉いさんの目に留まる。コロムビアの専属歌手として月給150円を貰う身となる。大卒の初任給の月給が40円だった時代。初めてみた100円札を、親孝行の昇は福島の実家の母親に送った。
 そうしてレコードを次々と出すが、期待に反してこれが全く売れない。もうこれが最後の曲として『誰か故郷を想わざる』が選ばれた。猛練習を重ね、「これはいい曲だ」とコロムビアも力を入れて4万枚のレコードを作製するが、ふたを開けてみると1枚も売れない。売れないままのレコードは社内のそこかしこにうず高く積まれている。
 陸軍省の将校がサーベルを下げてコロムビアの本社にやってくる。当時は日中戦争の真っただ中で兵隊に送る慰問袋に入れるレコードはないかと言う。そしてこの売れ残りのレコードが戦地へと送られた。この曲は故郷を懐かしく思う兵隊たちに熱烈に受け入れられる。戦地に慰問に来た歌手に兵隊たちは『誰か故郷を想わざる』とリクエストするが知っている歌手はいない。内地へ戻った歌手たちがこの話をすると、コロムビアはレコードを再発売し、ついには63万枚を売り上げるという大ヒット曲になる。こうして霧島昇は昭和を代表する大歌手として登りつめたのであった。
●神田すず 牡丹燈籠 栗橋宿
 (11時13分終了)

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