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8月26日 阿久鯉「水戸黄門記を聴く会」@四谷・須賀神社

 目の手術も無事終えて、今日より講談復活。7月末に入門した見習いの久太郎、久之介さんはリレーで三方ヶ原を。

★★★講談のススメ(其の十)鯉のゆくえ 神田阿久鯉の水戸黄門記を聴く会(14時30分 四谷・須賀神社)

●神田久之介 三方ヶ原軍記
●神田久太郎 三方ヶ原軍記
 ▽7月末に入門したお二人。現在のところまだ前座見習い。次回のこの会が催される頃には正式な前座になっている予定。
●水戸黄門記(1)光圀の生い立ち
 ◇光圀は寛永5年6月10日水戸藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)公の三男として生まれる。幼名は長丸(ちょうまる)三木仁兵衛の屋敷で育てられる。
 千代松には7つ年上の兄がおり温厚な性格であった。これに較べ長丸は剛毅で活発な子供で、長丸5歳の時、水戸徳川家の世継ぎに決まる。また名は千代松と改められ、江戸で父親である頼房と初対面する。
 6歳の時、江戸・小石川の水戸家の上屋敷にお世継ぎとして迎えられる。頼房公は千代松を気骨ある子に育てようと腐心している。ある秋の日のこと、水戸家の家臣である長井九十郎という者が罪に問われ斬首の刑にされ、さらに見せしめとしてその首が3日間、桜馬場で晒される。その晩のこと、頼房公は千代松と同じ年頃の子供たちを集め、その胆力を試してみようとする。子供たちに晒されている長井の首を持ってくるよう申し付けるが、怖がって皆黙り込んでいる。すると千代松だけがその首を取ってくると言う。一人真っ暗で小ぬか雨降る中、樹木うっそうと生い茂っている桜馬場まで行く。獄門台によじ登って長井の首を無理矢理落とし、縄に括りつけて引きずって屋敷まで戻ってくる。戻って来た千代松を見て頼房公もこの勇気に感心する。
 また、千代松は腰元を相手によく「いたずら」もする子供であった。ある雪の降る12月の日の事。手習いの稽古をしていると、老女の小房(こぼう)は菅原道真の歌を千代松に教える。すると千代松はその歌を引用して「降る雪が 白粉(おしろい)ならば 手に取って 小房が顔に 塗りたくぞある」と詠む。老女の小房の顔が黒いことをからかった歌である。
 8歳の時、千代田の城で元服し、将軍・家光の一字を取って「光圀」と名を改める。兄の頼重と共に馬術に稽古をしていた際、喧嘩をして兄に対して刀を向け、首を斬ろうとする。これ以後父の頼房は、光圀から脇差を取り上げてしまい、帯刀が許されなくなる。
12歳の時、しばらく長雨が降り続いた後、頼房は光圀を連れて浅草・待乳山へ行く。隅田川は濁流と化している。頼房は光圀に泳いでこの川を渡れという。光圀はこの激流に飛び込み向こう岸まで泳いで渡る。光圀は顔色ひとつ変わっていない。これに感心した頼房は、光圀に再び脇差帯刀を許し、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)の名刀を渡す。光圀はこのときの感激を生涯忘れず、以来登城の際にはこの脇差を必ず差して出かけたという。
 この年、兄の頼重が分家し常陸国・下館5万石の大名に、さらに3年後には讃岐国・高松城12万石の大大名になる。
 一方で、成長した光圀は放蕩三昧の乱暴な若者となる。16,17歳の時、異様な形(なる)をしてその姿はまるで歌舞伎者、今でいうチンピラなようである。お側に仕えていた小野角右衛門は涙ながらに御意見し、若君様の改心を神仏に祈る。
 18歳の時、そんな光圀の行状に変化が現われる。司馬遷『史記』の伯夷伝を読んだ光圀は、兄弟が王位を譲り合った逸話に感銘を受ける。後のお世継ぎを兄の子にすることにし、自らは学問に精を出す。
 次回は、なぜ兄の頼重が跡継ぎにならなかったのか、その話から。
●神田阿久鯉 寛永三馬術 愛宕山 梅花の誉れ
 <仲入り>
●村井長庵 大団円
▽松鯉先生から教わった『村井長庵』の最後が“不完全燃焼”ということで阿久鯉先生自ら創作。お白州の上で村井長庵の為した数々の悪事がすべて暴かれ大団円になる。6月の新鋭講談会の折、あらすじをまとめたのでこちらを参照して下さい。

http://koudanmemo.blog.fc2.com/blog-entry-177.html

 (17時16分終了)

180826阿久鯉@四谷須賀神社


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