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8月11日 琴柑『南総里見八犬伝(三)』、すず『相馬大作(一)』

 非常に密度の濃かった一日。

★★★宝井琴柑講談会きんかんよみ民俗講談其ノ六 連続『南総里見八犬伝(三)』(13時31分開演 お江戸日本橋亭)

●神田伊織 桂昌院とおさめ お歌合わせ
●宝井琴柑 南総里見八犬伝(三・前)行徳から荒芽山
 ◇行徳の舟宿、古那屋(こやな)で顔を合わせた四犬士。大塚村の犬塚信乃、古河の芳流閣で信乃と戦った犬養現八、行徳の相撲取り犬田小文吾、まだ産まれたばかりの犬江親兵衛。里見家のちゅ大法師もこの宿に居合わせた。八人の犬士を探してすでに22年。犬士にはかつて里見家を籠絡しようとした玉梓(たまずさ)という女の呪いが掛かっている。女性にはくれぐれも気を付けるよう。犬士に言い残して、まだ見つからない犬士を探して旅に出る。
 信乃、現八、小文吾の三人は、第5の犬士である額蔵こと犬川荘助を訪ねて大塚村まで行く。荘助は信乃とは兄弟の契りを結んだ仲である。
 一方、母親・沼藺(ぬい)と父親・房八とを亡くしてしまった赤ん坊、犬江親兵衛は房八の母親である妙真が預かる。妙真と小文吾の父親である文五兵衛が話し合った結果、親兵衛を安房国へ連れて行き里見家の家臣ととして育てることにする。その道中、荒くれ者の舵九郎(かじくろう)という者と出会う。舵九郎はまだ色気のある妙真に言い寄り、親兵衛をかっさらて頭上高く上げ地面に叩きつけようとするが、ここで俄かに稲光が光る。突然強い風が吹き砂が舞い上がり、周囲の者は目をつむる。この間に親兵衛の身体はフワッと浮き上がり、風と共にどこかへ飛び去ってしまった。妙真は泣き崩れるが、親兵衛の飛び去ったのは安房国の方向である。またいつか出会えるであろうと文五兵衛はなぐさめる。
 さて、大塚村へ向かった信乃、現八、小文吾の三人だが、荘助は主殺しの罪を着せられ、拷問された上で間もなく死罪になることを知らされる。刑場である巣鴨・庚申塚に向かうとまさに荘助は大木に括りつけられ、刑吏が槍を突き刺そうとしているところだった。三人の活躍で荘助は助けられ、四人で戸田の堤まで逃げる。ここでは舟に乗った“やす平”という者が匿ってくれた。どこに逃げようか相談する四人に、ならば私の妻・音音(おとめ)がいる上野国(こうずけのくに)の荒芽山(あらめやま)へ行ったらどうかとやす平は勧める。
 四人は荒芽山へ向かう途中、妙義山へ参詣し山の中腹の茶店で休んでいる。荘助が遠眼鏡で楽しんでいると、あれは本郷追分で立ち会った犬山道節ではないかと言う。彼もまた犬士のひとりである。親の仇である関東管領・扇谷定正(おうぎがやつさだまさ)を狙っているのではないか。であるのならば彼を助けなければ。四人は急いで山を下り、上野の白井城(現在の渋川市付近)へと向かうのであった。
 <仲入り>
●関沢民族舞踊研究所 九十九里浜唄、南部俵積み唄(青森)
 ▽女性3人の踊り。横須賀を拠点に活動しており、日本各地を巡ってその地方の踊りを修得している。琴星先生と研究所の関沢さんが懇意にしており、その縁で今日は出演。千葉にちなんで『九十九里浜唄』の踊りを披露。
●宝井琴柑 南総里見八犬伝(三・後)船虫登場
 関東管領・扇谷定正は狩りを終えて、居城の白井城へ帰ろうとしている。そこへ彼の命を狙っている犬山道節が笠をかぶった浪人の体で現れる。宝刀の村雨丸を鞘から抜くと、定正はこの刀に注目する。この宝刀を定正様に献上したい。こう言って近づき、やおら刀を振り上げて定正を斬りつける。定正の首が転げ落ちる。これで父親の仇は討てたと思った道節だが、草陰から一人の男が彼に話しかける。「それは影武者だぞ」。本物の定正はすでに城へ戻っていたのだ。定正の兵に追われる道節を、信乃、現八、小文吾、荘助の四犬士が助けに来る。「なんだか分からないが助太刀が来たぞ」。そこへ竈門三宝平(かまどさぼへい)という男が現われる。彼こそは、道節の父親を斬った男である。道節は村雨丸で三宝平の首を取る。
 道節を加えた五人は荒芽山めざして駆けていく。やす平の妻である音音とも無事出会うことが出来、犬士らは安堵する。ここで五人はお互い名乗り、白い玉と牡丹のようなアザとを見せ合う。竈門三宝平を討った祝宴を五人で開きすっかり打ち解け合い、兄弟の契りを結ぶ。道節は村雨丸を元の持ち主である信乃に返す。また荘助と道節は入れ替わっていた『忠』の玉と『義』の玉を交換し合う。
 真夜中、夜闇に紛れてぞくぞくと敵勢が攻めてくる。この状態では戦うことは出来ない。五人は軍勢の中に飛び込み、それぞれ散っていった。
 数日後、小文吾は武蔵国まで戻っていた。草陰からイノシシが現われ、素手で殴ってやっつけてしまう。またしばらく歩くと今度は40歳くらいの男が仰向けになって口からアワ吹いている。小文吾が気付の薬を与えると、間もなく男は息を吹き返した。イノシシを捕まえようとして逆にやられてしまったのだ。小文吾が旅の者だと分かるとその男、並四郎は阿佐ヶ谷村の自宅へと招き入れる。家には船虫(ふなむし)という女房がいた。恩人である小文吾を酒や料理でもてなす。小文吾は床に就くが、真夜中、妙な心地がして目を覚ます。何者かが蚊帳の中に侵入しようとしている。刀を取り上げ首根っこを掴む。「灯りを、灯りを」というと船虫が現われる。盗みに入ったのは並四郎で、すでに息絶えていた。船虫が話すには、自分は元は北条家に仕える由緒ある家の娘だったが、家が零落し並四郎という盗人の妻となった。盗人だとは分からぬよう、並四郎は急病で死んだことにしたい。船虫は家宝であるという、1尺8寸ばかりの黒漆に蒔絵を施した笛を小文吾に差し出した。この船虫こそ稀代の大悪女であるのだが、その話はまた次回。
 (15時09分終了)

180811b琴柑よみ@日本橋亭


★★★第十回連続物の講談を読む会 五日連続読みの会(日暮里サニーホール コンサートサロン 19時02分開演)

●神田すず 相馬大作(一)最初の本懐

↓これより前の(序)の部分は7月8日のブログを参照
http://koudanmemo.blog.fc2.com/blog-entry-184.html

 ▽津軽藩の殿様に対する仇討ちの読物なのだが、第一回目にしてあっさりとその殿様は殺害されてしまう。この先どうなるのだろう。
 ◇14歳で盛岡から江戸へ出た下斗米(しもとまい)秀之進は、平山幸蔵の元に入門し、様々な武術や学問を習う。平山は紀州藩に仕えることになり、秀之進も同道する。あらゆる事を勉強しまた修行をし十年の年月が経った。秀之進はふとしたことから南部藩と津軽藩との間のヒノキの騒動を知る。もう盛岡を離れて随分経つがやはり自分は南部の侍である。津軽の殿様を亡きものにしなければならないと秀之進は決意する。師の平山の元を出奔し、相馬大作と名を変える。下総国の高岡(今の成田市の辺り)で土地の顔役の厄介になって、奥州訛りを捨て、下総訛りを身に付ける。1年ほどしてまた江戸に戻り、大坪本流の馬術の達人であった大作は馬小屋の中間として働くが、面倒見が良くて金の遣いっぷりが良い彼はたちまち「兄ィ、兄ィ」と慕われる身になる。
 本所緑町一丁目の津軽藩上屋敷内の大部屋でバクチの出入りをしているうちに、馬部屋の部屋頭の竹蔵に見込まれ、屋敷内の馬小屋の中間として雇われる。ある日、お乗り役の滝川伝兵衛からの命で殿様のご乗馬である吹雪を馬場に引き出す。大作は馬に乗って走り始め、自分の手足のように吹雪を乗りこなす。下郎のくせに巧いなぁと思う伝兵衛。この様子を津軽藩の殿様がご覧になっていた。「あの馬に乗っているのは何者であるか」、殿様が尋ねると御前に馬を止めてヒラリと降り、頭を下げながら「相馬大作でございます」と答える。大作は再度馬に乗る。「ハイヨ、ハイヨ」、パッパッパッパッ。馬場を縦横無尽に馬を乗りこなすが、その見事なこと。「何か他にできるか」殿様が聞くと、今度は巧みに馬を操りながら地面に様々な紋の形を描き表す。すっかり大作のことを気に入って知った殿様。それから殿様が馬乗でお出ましの際には必ず口取りは大作と決まる。
 年が明けて、2月5日。津軽の殿様は平井の聖天様へお忍びで出かける。殿様の馬の口を取っているのはやはり大作である。本所の町を離れたとき、大作は殿様に日頃馬術に鍛錬しているその腕を披露したらいかがですかと持ち掛ける。殿様は家来の者を置いて一人先に抜け駆けする。他の者たちは追いつくことが出来ず、大作は駆けてその後を追う。殿様の乗った馬が平井の土手に上がると、大作は馬の右鐙(あぶみ)をはね上げると馬は棹立ちになり、殿様は落馬する。大作は殿様の脾腹(ひばら)の辺りを力いっぱい蹴る。次に殿様の髻(たぶさ)を握って首を逆さに捩じる。殿様は口と鼻から血を吐いて絶命した。そこへ遅れてきた家来の者たちが駆け付けた。「大変でございます」。殿様が血を吐いて倒れ、こと切れている。大作は柳の枝が馬の顔に触れ、驚いて棒立ちになったと説明する。殿様の亡骸は緑町の屋敷へと運ばれた。
 大作は風邪をひいたと言って、火鉢を7つ8つ買い受け、それを布団の中に入れる。一方、津軽の家来の者たちは殿様の遺骸を調べている。殿の腹には致命傷がある。これはその場にいた大作を取り調べなければならない。「大作、御用だ」。家来の者たちが部屋へ踏み込むと、大作は布団を跳ね上げる。火鉢を天井に向けて投げると堅炭(かたすみ)や灰が部屋中に飛び散り、入ってきた一同は熱くてたまらない。その隙に大作は窓から脱出して、暗闇の中に姿を消す。津軽の家来の者たちは大作を指名手配して追う。
 津軽家の重役は殿様の変死を御公儀に報告することが出来ない。家康公の遺訓で変死の場合、お家断絶となってしまうのだ。そこで殿様は病死ということにして、子息に家督を継がせる。その月の末の朝、西の丸の老中の屋敷の門前、あるいは江戸の町のそこかしこに貼札がしてある。そこには「今月五日、津軽越中守、平井村聖天参詣の折死去したが、殺害したのは某(それがし)である。津軽家は病気だと届けているが厳重にお取り調べ下されたい。大公儀役人御中。相馬大作」と書いてある。江戸の町中でこれが噂になる。
 この話は大作の師匠であった平山幸蔵の耳にも入る。下斗米秀之進が自分の元を去るときに残した手紙には「変事があれば私の所為だと思ってください」と書かれていた。果たしてこれは秀之進の仕業であろうか。すると3月15日、平山の誕生日の祝いの折に秀之進からの手紙が届き、やはり彼の仕業であったことが分かる。
 この後、相馬大作は江戸を出奔し、どこかへと向かうことになるのだが、その話はまた明日。
●神田山緑 牡丹灯籠 お露新三郎
 (20時21分終了)

180811pすず・相馬大作@日暮里



↑釈台が『箱馬』である。実はすずさんが…。





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