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2月4日 地図の勉強会で発表

 本日、八王子市内の公民館で私の参加する地図の勉強会での発表。4月に開催予定の巡検の予習で、今回のテーマは「赤羽・川口」。新荒川大橋を渡って東京都と埼玉県の両方を巡ろうという盛り沢山のコースで、発表後に会の方から「そんなに歩けるのか」という懸念の声もチラホラかかる。川口の方はあきらめて、赤羽のみをより詳しく巡るコースを再考しなければならないか。

★★★赤羽の変遷

 明治初期までは純然たる農村地帯で、低地は水田、台地上は畑で大根が広く栽培されていた。また、江戸時代には将軍が日光参詣の際に通行する道として「日光御成道」が整備され、荒川河岸の「岩淵」は渡船場の宿として賑わう。1884(明治17)年に日本鉄道、上野~熊谷間が開通。2年後には赤羽駅が開業し、品川~新宿~赤羽を結ぶルートが敷設される。以後、交通の要衝となるとともに、東京中心部から火薬倉庫、被服本廠、工兵隊など陸軍の施設が移転し赤羽は「軍都」とも呼ばれるようになる。関東大震災後は東京中心部から郊外への移住が進む。1930(昭和5)年には荒川放水路が完成し、洪水の恐れが低減した低地帯にも次々と住宅や工場が建設される。また同時期、鉄道が電化され「京浜東北線」が走るようになって都心との往来も便利になり、都市化に拍車がかかる。戦後、軍施設は住宅団地、学校、病院、公園などに姿を変える。昭和30年代に造成された住宅団地は建て替えの時期になり、高層化が進んでいる。

★★★川口の変遷

 「川口鋳物」の起源は平安時代説から江戸時代説まで様々。鋳物造りに欠かせない良質な砂や泥が荒川から採れ、江戸という大消費地が近いことから地場産業として発展する。江戸期から明治初期までは荒川対岸の岩淵とともに、日光御成道の渡船場あるいは宿場として栄え、街道沿いに商家、民家が並んだ。1910(明治43)年には東北本線川口町駅(現・川口駅)が開業。街道沿いの従来の町の中心部と駅とは800mほど離れており、一直線の道で結ばれる。関東大震災の後東京中心部から郊外への移転が進み、さらに京浜東北線電車の運転開始(1932・昭和7年)とともに急速に市街地が拡大。また川口鋳物は日用品だけではなく、工業製品や建築用品そして軍需品と販路を広げて発展する。現在の川口の最も繁華な地は駅周辺で、かつて町の中心だった街道沿いは商業地としては寂れる。また鋳物などの工場は市街地からの移転が進み、跡地はマンションなどが建てられている。

map01赤羽・川口(1880)_完成 map02赤羽・川口(1919)_完成 map04赤羽・川口(1957~59)_完成
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